丸山真男の加藤周一著作集についてのダベリ

加藤周一著作集」をめぐって ―W 氏との対話―(1980.3)
丸山真男別集3 2015.6
W は当時平凡社で編集者をしていた鷲津氏。丸山による著作集月報の準備のための対談の記録控え。丸山はこれを元に別に執筆。
W
・加藤への反応として加藤ファンと拒絶反応を示す人の2種類。
後者の例:世阿弥の「花」概念を観客の反応にかかわる概念としてつかまえた。(岩波日本思想大系24)国文から反応ゼロ。
日本文学史序説も専門家からの反応がない。
「ある孤独感を感じる」
・読者からのスター的な反応
医学論文までいれろ、英仏独まで全部入れろという要望。
M・ 森有正の読者のことは良くわかるが、加藤のファンのことは正直想像しにくい。
加藤と違うのは命題の叙述の面がほとんどない。加藤のは事実の叙述の面があるけど、完全に自分の思索。森の場合はそれが逆に受けるところがある。それが非常に文学的な表現になされているから、事と言とを分けると、むしろ言葉のほう。
W一種の知的ミーハーの人たちではないところで、あっちをかじり、こっちをかじりじゃないかという批判がある。とにかく何についても発言できて、国際的にも活躍できるような人に対する一種の憧れみたいものが学生の間にある。
M・戦争直後のマチネ・ポエティークの時代ならともかく、こういう70年代のしらけの段階になって加藤君の読者層が若い人であるというのはよくわからない。
・(若者が異端を好む)という点では吉本隆明なんかが受けるのもわかる。ただこの人は異端とはいえない。僕は大変正統的で立派な批評家だとは思うけれども、それなりに若い人にうけるのはわかる。しかし、吉本君は政治論文はほとんど書かないし,書けないだろうと思うんです。例えば今度のアフガン侵攻とか具体的な問題を分析するというようなことは、実際に書かないだろうし、書けないだろうと思う。それが加藤君なら書けるわけだ。ところが若い人にそういう政治的関心が非常に減退している。
W/1万刷って80%売れている。森有正は2万。後半でも落ちない。読者は9割以上が男性。
M 日本ではきわめて受け入れにくいタイプの人だというのが実感。なげかわしいけれど現実はそうです。逆にそれを受け入れる方がわからない。(笑)
森有正の男性読者は、ぼくらのような戦前派から言うと、男か女かといいたいようなの仲に熱烈な森ファンがいる。神経は繊細だけれども、ひ弱な、少したくましさのかけているような男性ね。拒絶反応は文学者が一番でしょう。それと大学教授、国文学史をやっている人。
W フランス文学をやっている鈴木道彦、海老坂武、阿部良雄のような人は、学生時代に触発を受けたので、好意的。日本文学のほうからは反応ゼロ。
M 例えば政治学の人々の間でいうと逆に拒絶反応があることが理解できないぐらい非常にナチュラルに受け入れられている。要するに文学者の中で、政治学者と同じ言葉を使って、普通に話のできる人がほとんでいないわけですよ。例えば60年安保の時に学生であったというような人でも社会科学系の人には拒絶反応はないですね。文学者として政治評論を書いて、政治の人からみておかしなところが全然ない、検討違いを書いているなんていうことはない。こういう人は文学者には少ないんですね。
・丸山がハンガリー事件の時に「世界」で座談会をやったときに埴谷を推薦し、竹内好も参加したが、海外留学中の政治学者が埴谷が何を言っているのか自分には全然わからないと手紙をよこした。丸山は埴谷がいっていることは一応わかるが、普通の政治学をやっている人には全然通じない。政治学的にいうとあまりに常識からはずれている。
・60年はじめに開高健から「丸山さん、加藤周一っていうのは芸術がわかると思いますか」っていわれてたまげた。杉浦民平、「未来」の同人、戦中派安田武の拒絶反応はわかるが。
木下順二と議論になり、丸山が「ああいう人がいてもいいんじゃないか」といったら「それが加藤君についていいうる最大の評価だ」といっていた。
・30そこそこまでは引っ張られる。で全部初年兵教育でしょう。しかも幹部候補生になるのはいやだから拒否する。
・今はまたタコツボになっちゃいましたけどね。現在はもう驚くべくひどいでしょ。
・加藤君に対する拒絶反応はそういう中野・桑原的な「広さ」に対する批判一般に解消できない何ものかがあるんじゃないかというのが次の問題。
W・花田清輝が生前加藤について話をしたことがあって、一言で「半可通」といわれた。 
平家物語石母田正の平家をほとんど下敷き、成島柳北前田愛、極論刷ればほとんどそれを超えていない。鴎外は石川淳中野重治。そういう風に一つ一つそれぞれのところで専門家は見えちゃうという面があり、そういうところから大したこといっていないよ、というふうになってくる。しかし加藤の狙いはひとつひとつではなく全体である。
M 戦争直後の反発のひとつはハイカラ趣味。
・戦国時代の「横目」(横目付)
・日本的陽明学知行合一で実は行を優先させるというのが、三島由紀夫を始めはやるわけ。
加藤周一はいかなる問題でもある程度以上の実践的な問題にはコミットしないわけです。ぼくもそうだけれど、ぼく以上にそうだね。彼は。それはもう見事といっていいぐらいコミットしない(笑)そうすると日本的な道徳基準からいうと実にずるいヤツだということになるわけですよ。そういう日本的モラリズムからの評価が一つないだろうかという気もするんです。
W どういうわけか、加藤さんというのは贅沢な暮らしをしていると思われているわけです。大方の人がそう思っている。
M 銀座のバーでの岸田国士「暖流」(松竹、吉村公三郎監督)について、なぜ高峰三枝子(病院長の娘)より水戸光子(看護婦)にほれたかという議論。
文学史序説における紀貫之菅原道真、政治経済的支配層と文化的創造者としての知識人との分離の指摘。
津田左右吉「文学に現われたる国民思想の研究」(1916−21)との比較
・一方は従来の伝統として考えられていた思想史を解放し、少なくとも非常に広い、総合的な視野から歴史叙述をしてしかも思想をテーマとした。一方は文学というものを思想史的な文学のなかでとらえた、そういう意味でぼくは非常にパラレルなものを感じたわけです。
・お二人とも専門分野からは完全に孤立し、無視されている(笑)
ゲオルゲ・ブランデス「19世紀文芸思潮史」
・R.G.Colligwood
・Egon friedell 近代の文化史
・Friedrich Heer Europaische Geistesgeshichte 1956
・加藤著は通時的的かつ共時的である。
・加藤著で津田さんを思い出したのはイデオロギー批判。イデオロギー批判というのは外在的批判、つまり社会的、政治的条件から思想なり作品なりを説明していくいき方で、これはいまはあまりはやらない。
・そういうイデオロギー批判が無さすぎる。これを日本でやったのは津田さんです。ただ、津田さんのはちょっと破壊的すぎてね。さすがに加藤君はもう少し内在的にみています。津田さんは偶像破壊をしすぎてしまい、イデオロギー批判のやりすぎだ(笑)、戦後はその反動で、今度は記紀神話にしても津田さんはいいところばかり強調するようになったけど・・・。
プリンストン比較文学のある有名な人が報告したが、江戸時代の何とかという僕の知らない絵描きの画風がロココに似ているという話。うちの女房が「だからどうだっていうの?」。「お前には珍しく、今日の報告に対する最も鋭い批判だ」と女房にいった。ただ比較しているだけで、何のために比較しているのかという問題意識がさっぱりわからない。
・津田さんが加藤君と似ているところは書誌学的趣味がゼロなんですよ。P297
・加藤君に僕が感心するところは、非常に簡潔であることと、フランス的志向のいい面で定義が明確であること、これは日本人には足りない面です。
・逆説の使用、これも津田さんにはない面。
・アストン「日本文学史」を読んでいる。
・日本でいわれているのと全く逆の辛らつな評価を今は別れちゃったオーストリア人の加藤夫人から聞いたことがある。ウィーンのホテルで一晩ダベッたところ一晩中加藤批判だった。その時の加藤評価は日本でいわれているのと全く逆。彼女が言うには、加藤の役目は、ヨーロッパあるいはヨーロッパ的世界にいてヨーロッパ的世界の目で日本をみて、それを日本や日本人に伝えることにあるのだが、彼には非常なコンプレックスがあるということなんです。つまり、少し外国にいるとあいつはヨーロッパにイカれたんじゃないか、日本人でなくなったんじゃないかと思われそうだというコンプレックスがあって、しょっちゅう日本に帰ってくるが、それが彼にとってはマイナスであるという批判なんです。なんというくだらないコンプレックスであるか。加藤の使命はどこにあるのか。ヨーロッパ文化を内在的に捉えられる人は、日本ではまだ非常に少ないのに、それを自分の使命としないで、1年ぐらいヨーロッパにいるとしょっちゅう日本へ帰る。日本との接触、日本人との接触が失われることを、彼は極度に恐れている。そして日本にもいいところはあるとか、そんなあたりまえのことをいったり書いたりしているという(笑)。辛らつな批判ですね。(中略)
もっとヨーロッパにのめり込め、10年帰らなくてもいいではないか、日本人の知友がいなくなってもいいではないか、もっと自分の使命がどこにあるかを考えろというわけです。
・森君の加藤君に対する批判もややそれに近いですね。加藤君もやはりコンプレックスがあって、日本人だから日本としょっちゅう行ったり来たりして、日本人とも接触を保とうとする。それぞれ考えがあるのだから、加藤君は加藤君の考えがあると思いますが、さっきのを足してニで割るとちょうどいいのではないかと思うぐらい、日本の中での拒絶反応と全く逆なんですね、奥さんからみた加藤君は。
・ぼくは絵というのは全然ダメだから、彼と話すのは音楽ですが、彼はバッハから現代音楽まで、すべてわかるわけです。ぼくは逆で、現代音楽はバルトークぐらいまではわかるけれども、後は全然無縁です。また一般的に少しずつわかるようになるので、非常に遅いんです。オクテです。ブルックナーなんか面白くなったのはつい最近です。
ベートーベンの弦楽四重奏なんていうのは学生時代には全然わからなかった。あんなのお経みたいもんだと思っていましたよ。
・加藤君は驚くべき感受性で全部わかっちゃうわけです。加藤君が好きなピアニストでミケルアンジェリという人がいます。ぼくも天才だとは思うけれども、どうしても受け入れられないような種類のピアニストですね。芸術家を分類するのは無茶だけれども、非常に知的な演奏をする。非常に変人らしい。確かに天才だとは思うけれども、とてもかなわない。ところが彼はすばらしいという。だからその辺は感受性の構造は違うなとおもうんですけれども、同時に芸術作品のあらゆるジャンルを全部受け入れられる精神というのは何だろうと思ってしまう。それがもう一つぼくにはわからない。驚くべき理解力ですね。文学史から何から全部そうです。強いて疑問といえばそこですね。究極的にいちばん芯のところには何があるだろうというのがわからない。しかし、驚くべき理解力であることは確かで、けっして嘘じゃない。本当に感受しているんです。
みんな感受しているに違いないんだけれども、その感受するこっち側の鏡というのは非常に等質的で透明だという感じがするんです。いわゆるよくいうところの知的、分析的という意味ではないんですが・・・。
ミケランジェリを受付ける精神なら後記ロマンティークのある要素はとてもかなわないということになる。どっちかじゃないかと思います。それが両方とも感受できるというのですから、その精神はなんだろうか(笑い)
・最近のピアニストをみると、すごく感覚的になって、そっちの方がどんどん進歩している。そういう意味では内面性が希薄でねえ。
 ・極端に衰えてしまったけれども、ケンプのよさミタイのものは、今の若い人は全然わからない。昔のケンプの演奏を聴かせても「どこがいいんですか、先生」という。嗚呼、そうかなぁ、ドイツ精神ついに滅びたかと思ってね。
・(ヨーロッパでは)いやになるぐらい伝統的ですよ。全部デカルトから来ているのが話してみるとわかる。