島薗VS子安

島薗進の『国家神道と日本人』(岩波新書、2010)について、こんな論争があることを

知らなかった。これは私も出た時に読んだ。

かつての村上著「国家神道」に比べるとぬるいという風には感じた。だから
子安の批判はなんとなくわかるが、以下のような罵倒に値するものか、どうかはわからない。
すくなくとも2004年の著書、『国家と祭祀』(青土社)が参考文献としてあげてない、
というのはいかがなものか。

http://chikyuza.net/n/archives/3705

「国民自身が国家神道の担い手になる」と島薗はいう。靖国を支え続けているのは神社
神道ではなく、国民よ、お前自身だよというのである。だから国家神道はいまも存続し、
靖国はいまも国民の信仰の中に存続すると島薗はいうのだ。糞食らえ、島薗![3]

[3]私はこの感情的な表記を何度か消そうとした。しかし消すことはできなかった。
私はこの書を許すことはできない。

これに対して、島薗氏からの応答があった。

http://shimazono.spinavi.net/?p=127#more-127

村上の議論は、今日の宗教史研究の水準からはとても支持できないものである。村上は
古代以来神社神道がどのように存在してきて、近代の国家神道の形成にどのように関わって
来たのかについてはほとんど論じていない

 たとえば、対外政策や軍隊の秩序形成における国家神道の作用も、植民地における
国家神道の抑圧性の問題も、国家神道の概念内容が明らかにならなければ、また、
皇室祭祀や天皇崇敬のシステムを問題にしなければその意義を明らかにしようがない。
そうした基礎的作業が不十分だったために、村上重良の『国家神道』は今日、継承が
困難なものとされ、「国家神道の(概念の)空洞化」(山口輝臣『明治国家と宗教』
東京大学出版会、1999年)が唱えられるようになって久しいのだ。

 島薗著は確かにぬるいが、この論争は子安の負けか。