平川先生、小堀先生を論じる

鴎外81号07年7月「日本足の学者」森鴎外を論ずるにはいかなる視野が大切か

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/searchdiary?word=%b2%aa%b3%b0

 この雑誌のこの号にどのようなことが書いてあるのか、知りたい方も多いかと思うので、以下に抜粋を。
平川氏と小堀氏の人間関係が分かって興味深い。この論文の最後の方に「駒場学派」という表現が出ている。

 平川氏は当初高く小堀氏を評価し、期待していたようだ。
「だがその人がいつしか大学院生と対話するより自説を一方的に講義する人となった。
 そればかりか、比較文学そのものから遠ざかり、保守派の論客に転じ、日本の弁護人となった。
 その論の多くに賛同する私ではあるが、時に違和感を覚える。」

「その昔、知り合ったころ、私が小泉信三を評価した時、当時の小泉氏はまだ左翼学生の名残があって、
眉間に皺を寄せて私に向かい小泉批判を言ったりもしたのである。あれから半世紀、その間の変わりようを
思い返すとある感慨を禁じえない。」

なぜ、そういう風になってしまったのか。こういうエピソードを出す。
「(東南アジア)旅行の際、英語も中国語も達者な衛藤団長は外国語の教師が英語が下手だと
露骨に冷やかした。私も冷やかされた一人なのだが、小堀氏はそれにひどく傷ついたかに見えた。
それ以降、外国行きの機会が提供されても、西洋へは行かなくなってしまったのである。」

また、このような教師としてあるまじき党派的な動きをしたらしい。
「自分を指導教官に選んだ人には、たといその論文がそれだけの内実がなかろうとも学位号の
付与のために弁ずるという、私にいわせれば、よくない面もあった。」

  
 「小堀論文には先行論文への言及が肝心の時に落ちていたりする。」
 「小堀氏のプライオリティー無視には時無礼はものがあった。」
 「林健太郎氏との論争でも非礼な点があったことは小堀氏自身が反省を書いている。」

 鴎外全集の編纂に小堀氏が関係しているので、蔵書の書き込みも「漱石全集」と
 同様に活字化されると平川氏は期待していたが、「ある日小堀氏から「あれははいりません」と簡単にいわれ
た時、約束を反古にされたような感じを受けた。」とある。

 この時、小堀氏がしっかり鴎外の蔵書書き込みを活字化しておけば、その後の
「鴎外文庫」の管理のどたばたも変わっていたかもしれない。

驚いたことに
「私は助手時代に当時はまだ最新鋭の機械であったゼロクスを用いて大学院生を動員し鴎外蔵書
書き入れのコピーを作った。研究室が大学紛争で占拠され、ロッカーごと一度は行方不明になったが
偶然運動場の一隅で見つかった。その貴重な資料が今度は私の2年近い米国滞在中、研究室から紛失する
という信じがたい事件が起きて、私は真に落胆した。」

 
残念ながらここで昔小生が触れた「鴎外文庫」の現状については触れていない。

渋江抽斎の執筆にあたり、渋江保の手記を書き換えたどうか、の見方(平川氏は書き換えたという
論であるが)から
「小堀氏の論 を支える歴史とはこうだと断定する定義は小堀氏個人には通用しても、必ずしも
世間に通用するのではないのではあるまいか。」

「日本における漢学の盛衰に引続くドイツ学の盛衰の中で森鴎外についての駒場学派の比較研究を大観するとこんなことになる。」

 本論文を読んで、平川氏が小堀氏よりも相対的に右と左のバランスを取ることができたのは、西洋における体験で傷が浅かったかただろうという思いを強くした。上野千鶴子ではないが、男どもの欧米体験がその後の政治的な
立ち位置に影響を与えているというのは間違いがないことであって、傷が深いものほどナショナリストになっている。


 こんなものに巻き込まれた学生はたまらんだろうな。