吉本隆明と私

 その人の本は北陸の中都市の駅前書店にも、頸草書房版著作集や「情況」
というタイトルの本が、白水社サルトル全集や河出版高橋和己作品集と
ともに並んでいた。田舎高校生の間にも、サルトルはまだ生きているから
全集が出続けて読むのが大変とか、「わが心は石にあらず」派の高橋和
ブームはあったが、吉本を読んでいるのが周りにいたことは知らない。
著作集も店頭で覗いてみたことはあったが、詩歌にあまり関心がないため、
遠い世界のような気がした。
 最初にその文章に心を入れて読んだのは、大学に進学するために
東京へ出てきてからすぐだった。三鷹にあった大学の寮から、神保町へ
本を漁りに出たときに、どこかの古本屋で手に入れたのが著作集のうちの
政治論集だった。ちなみにこの時に思想の科学の「転向」も買っていて、
思えば吉本その人も「転向」を論じた人であることは偶然にしてはよく
できていた。これらの本を棚にならべ、ようやく大学生らしい読書が
できると気分が高揚していたものだ。
 政治論集を読んで、戦前の共産党の活動の位置づけや、60年安保前後の
左翼の動向を初めて知ることとなった。それまで漠然と保守政治に対抗する
左翼勢力ぐらいとしかっていなかった日本共産党の自分の中での像が
この時崩れた。
 その後著作集の残りも文学論集、カールマルクス丸山真男論、から最後には
初期詩集まで少しずつそろえた。大学紛争の際の大学教授を罵倒した「情況」にも、
こんな詩人がいるのかと驚いた。大学に入った夏休みには図書館で「共同幻想論
を読んだが、「対幻想」「共同幻想」という枠組みはわかりやすいのに、本文では
何をいいたのか、よくつかめなかった。これは柳田や折口という書き手の資質を
いまだによくできないのと関係があるかもしれない。また、「言語にとって美とは何か」
「心的現象論序説」も吉本の自負と気負いにもかかわらず、それほど独走的なことが
書いてあるとは思えず、これらの著作の収入だけで食っていくのは大変だろうな、
と余計な心配をしていた。
 さらに同時代的に出版される本をその後読んでいくこととなったが、「詩的乾坤」の
中の三島の自死連合赤軍事件に対する「試行」上の「情況への発言」には、世間の
見方とは異なる鋭い分析で、心底影響を受けた。今でも何かわかりにくい事件がある
際には、この時の吉本のものの見方で見ている自分がいることに気付く。その後、
不定期でいつ出るか、わからない「試行」の定期読者になることはなかったが、
新宿紀伊国屋とか、高田馬芳林堂都下の店頭で、出たばかりの「試行」の巻頭に
ある「情況への発言」を立ち読みした。
 出たばかりの「書物の解体学」も何度も繰り返し読んだ。当然ながら論じられて
いる対象そのものも読まなければならず、この批評家と一緒になって作品に触れて、
自分の対象への理解力を試されているような気分になった。後に吉本にこれを
書かせたのは今は亡き安原顕という文芸誌「海」の編集者であったことを知ったが、
これも安原の生前の仕事で記憶されるべきものだろう。
「海」といえば、1978年ミッシェル・フーコーが来日した際の吉本との対談も初出時に
舐めるように読んだ。この時の通訳は蓮実重彦だったらしいが、吉本とフーコーにある
マルクスに対する認識の差がうまらず、双方の言葉がかみ合わないまま終わっって
いることにあっけにとられた。フーコーがあなたの著作の翻訳があれば、とかいって
いたが、西洋はやはり遠いのか、あるいは言葉が通じないのか。「世界認識の方法」
と題されたこの対談のことをフーコーはどう思っていたのだろう。
 こういう理論的?な仕事とは別に、谷中の商店街で買い物かごをぶら下げて夕食を
作る吉本さんや、テレビ番組を論じるエッセイ、太宰治や遠山啓の人物論に、どこかの
大学教授とは違って、横町で政治や文化を論じる物知り爺さんの姿を見つけて、わが
生涯の理想としていたこともあった。
 この人がさらに論をしかけたのはレーガンの核ミサイルの欧州への配備にに対する
日本の知識人の反核運動に対してであって、このような運動はソ連製の運動で無効で
あるとして論難しはじめた「反核異論」(1983年)である。最初は何のためにいって
いるのか、よくわからなかったが、この時の日本の反核運動はいってみれば、
昔の帝国主義国の核爆弾はけしからんが、共産主義国の核爆弾はきれいで正しい
爆弾である、というような馬鹿な認識を思い出させるようなレベルのものである、
ということで、吉本のいっていることは極めて全うである。
吉本さんが変わったなぁ、と思い始めたのは、「マス・イメージ論」を文芸誌に
連載した1984年頃からである。サブカルチャーとか、大衆向けの文学を論じ始め、
文体や用語もポスト・モダニズムに影響を受けたものになって、あれれ、一体
どうしちゃったの、という感じだった。論じていることはそれほど間違って
いないが、論じるスタイルがそれに合っておらず空回りしており、紙数は
尽くすのに論じられていることはあいまいで薄い、というむしろ詩人の悪い
ところが出ているように思われた。後にアラン・ソーカルあたりがフランスの
ポスト・モダニストを批判する際に指摘したことがここにも表れていた。
 一方で、昔の左翼の旧弊を脱しきれない埴谷雄高との「コムデギャルソン論争」
1984年)があった。たまたま見た雑誌アン・アンに吉本がモデルで出ていたこと
にも驚いたが、それをもとに当時著作を追っていた二人の間で激しい論争が
文芸誌上で起こったことはそれ以上に業天した。この論争は完全に吉本さんの勝ちで、
タイへ進出する日本人が悪魔、とか、シャンデリアがどうとか、いったような発言に
よって、まるで化石のような晩年の埴谷の老醜をさらけだすことになり、観客と
しては「吉本、年寄りをそこまでいじめるなよ」という気がした。
 さらに問題を投げかけたのはサリン事件以後に発言があったオウム真理教の麻原の
評価であって、麻原をそこまで評価するのはいくらなんでも無理で、その評価の根拠も
薄弱な気がした。
 そして、晩年に発生した原発事故に対しても、これまで「情況への発言」で
繰り返してきた原発の文明的な?利用論の繰り返しで、がっかりさせられた。もはや、
新エネルギー技術とその未来について勉強する気力も残されていなかったのかもしれない。
 それでも彼がその都度提起した人間の「知」と「信」、「善」と「悪」、「思想」と
「表現」といったような問題は、これからも誰かが彼の著作のいくつかを参照しながら
論じていくだろう。
 87年の生涯を、口を糊するためにどこの大学にも属さず、筆一本で生き抜いたのは見事。
初版2000部といわれるような書物を大量に生みだしたことに批判もあったりするが、
それを他人が特に大学教師風情がとやかくいうべきことではないだろう。下町の庶民家庭に
生まれ育った少年が、横町の爺さんとして、独自に知的世界を切り開こうとした道の広さと
長さを思うと、実にこの一生はすさまじいものだった。私にはもう一人の父親のようなもの
だった。
 この道をたどり直して論じることのできる若い人は今後いるだろうか。