出版社の存在意義

■かつて大江健三郎文藝春秋社が田中健吾の下で、反公害運動や市民運動を揶揄する香山健一や山本七平とつるんで「進歩派」を揶揄する論調に染まっていた時に芥川賞選考委員を辞任した。その理由は本人は明らかにしていないが、抗議の意を表したものだといわれた。確か鶴見俊輔文藝春秋社全体がそのような論調の社員だけではない、という言い方で、この出版社を擁護していた。
灰谷健次郎は少年事件で週間新潮が実名報道したことに抗議して、新潮社から自著の出版権を取り下げた。新潮社が週間新潮だけの会社でない事は誰の眼にも明らかだろうが、同じ出版社から自分の作物を出すのもいやだというのも理解できる。
■著者が自らの著作に自身をもって意義のあるものだと思い、自分のいいたいことをそのまま出してくれるのであれば、総会屋出版社であれ、ゴロツキ出版社であれ、世間に流通させることはいいことだ。昔は吉本隆明さんが、月刊誌「現代の眼」を総会屋の雑誌といって罵倒し、某出版社を印税の払いが遅いといっていた記憶がある。そもそも次々と倒産する弱小出版が多い中で、売れない良書を世に出していくだけでもほとんどボランティアではないか。(といってもそれで生活している多数の人がいることを忘れてはいけませんが)最近ではこぶし出版というのが「資本の論理」を超えてがんばっているらしい。
■小堀先生の岩波から出た鴎外論集成は、岩波が小堀先生の天皇制に対する立場にもかかわらず出版したということは賞賛すべきかと思います。少なくとも読者にとっては赤旗出版社であろうが、創価出版社であろうが、諸君出版社であろうが、しかるべく価格で手にはいるのであれば歓迎します。昔の左翼のように「出版資本と結託して」とか、いう批判はありえませんね。学術出版なんて容易なことではできません。