学術出版は持続可能か?

猫猫先生の学者の「単著」についての文章を読んでいたら、たまたまあった手元の小冊子(こんなものが出ているんですね)に次のインタビューあり。
「むしろ気にかかるのは、モノグラフの「危機」がアメリカでもイギリスでも日本でもあると思うのですが、全然意味が違っているのではないか、ということです。アメリカンの場合には、モノグラフが出せなくなってきてテニュウアがとりにくくなっている。それは研究者のキャリアにとっての危機であり、大学出版部の存亡の危機にもなっているのですが、日本の場合はそれとは状況がかなり違うと思います。むしろ出版不況だからこそ、専門書出版の世界全体では本が出しやすくなっているということがあるのでは。つまり、尊大な言い方かも知れませんが、ある意味でかなり敷居が下がっていて、質という点で危機的な状況になりつつあるのではないかと思えるのです。」
(イサカ・レポートと日本の学術出版ー一橋大学佐藤郁哉教授に聞くー「大学出版」No.75 2008.8)
 時々近くの公立図書館へいくと、ジュンク堂やLIBLOSの新刊書の棚では見かけない大学の先生による地味な「学術書」に出会うことがある。こんな本も出版されているのか、という驚きや、なかなかいいことを言っているじゃないか、とか、誰がこの本を税金で買うことを決めたのかとか、一冊の本を前にしていろいろな思いがよぎる。
 全国の公立図書館や大学の図書館が1冊ずつ買ってくれれば、商業出版だって本当は成り立つのだよ。ところが、まともな本さえ買わないところが多いということがクロコダイル先生にはわかっていない。なぜ、クロコダイル先生の本が商業的に成り立っているのか。
「実際、僕の狭い体験から言うと、アメリカの大学院でよく教材として使われていたのは博士論文を本にしたものなんです。そういう本では、文献レビューをきっちりしえあるのですごく読みやすいですし、一つのことをまとめて見せてくれる。それがそのまま教材として使え、次世代の研究の再生産に使える。そういう出版物はアメリカではすごく蓄積されているようですが、日本にはあまりないですね。日本でも、そういう、大学人の間で原稿にコメントを与え合う習慣とか大学院教育のあり方を全部ひっくるめた形での、もっと丁寧な本作りの慣行は根付いていかないことには、できてくる本の深さとか持続性は保証できないのではないでしょうか。」