震災記2011(1)

その歴史に残る地震に出会ったのは、週末の午後で、そろそろ仕事にも
疲れてきていた時だった。近々開催予定の事業説明会の準備で、それなりに
忙しい週であった。2011年3月11日午後2時48分。少し古めの事務所ビルは
下から急に突き上げるような力で、まず揺れ始めた。最初の横揺れから
これまでに経験したことにないものであったが、第二波、第三波と段々
揺れの程度がまし、30秒間もゆれていたような気がした。そのうちに
机のパソコンが落ちそうになり、事務机の引き出しも外へ飛び出した。
生まれてこの方、机の引き出しが飛び出すような地震にはあったことが
なかった。机の下から防災ヘルメットを取り出し思わずかぶってしまった。
立っている人は、揺れで傍の壁につかまらなければならないくらい揺れた。
縦揺れと横揺れに多少時間差があったので、首都圏直下型でないことは
わかったが、そうでなければないで、東京でこのくらいの揺れであるから、
震源地近くではそれ以上揺れているのは明らかだった。なんとなく関東
北部くらいか、あるいは信越方面が震源地という気はしたが。これが、
気象庁が、「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名し、
この地震の災害及び原発事故の災害について「東日本大震災」と呼称する
ことになる地震災害のはじまりだった。

 会社の事務所にはテレビ、ラジオの類はないので、ヤフーでまず地震
情報をつかむ。東北で震度6強というのがすぐわかったが、この時点では
まだ損害の程度などは想像できない。そのうちパソコンでラジオ局に
アクセルすることを思いつき、検索したところサイトが発見できたので、
TBSラジオを聴く。ネットでラジオを聴けるようになったのはどうも最近の
ことらしい、ということを初めて知った。会社の周りの人はパソコンで
ラジオが聴けるとは思っていなかったらしく、周りによってきてアナウンサー
の声に耳を傾けはじめた。スピーカーがパソコン内臓のものであるから、
音量や音質には限界があるが、それでもシンとした事務所内にアナウンサー
の緊張した声が響き渡る。
 最初のころは放送局のアナウンサーも状況がつかめず、局内での揺れの
程度の報告程度に終始していたが、そのうち出先からの報告が入り始めた。
ビルが揺れたとか、事務所内でキャビネットが倒れたというような周りの
動きが続いたが、目立った被害としては、お台場のテレポート駅近くの
ビルの屋上から黒い煙が出ているというもの程度で、あまり建物や人的な
損害については具体的なものは出てこなかった。ましてや、東北地方での
損害程度などはこの段階ではなく、東京中心の大型地震的な報道だった。
東京住人にとってもこれほどの揺れを経験した人はほとんどいないわけで
あるから、それもまた仕様がないことだったかもしれない。
 余震もしばらく続き、窓から外をみると、ビルの中から出てきた人が通りに
かなりの数となっている。古い倒壊するようなビルでもない限り、建物内に
いるほうが安全にきまっており、へたに外へ出ると落ちてきた窓ガラスに
やられる可能性もあるのに、と思った。
 都内の鉄道は点検のため、全面的にストップしているとラジオが伝えている。
駅方面がどうなっているのかと近くの茅場町へいってみることにした。外へでると
ビルの外で避難?している人が多いのに驚く。途中で、出先から帰ってきた
U君に出会う。地下鉄が止まっているので、大手町から歩いてきたのだという。
駅への道もいつもより歩いている人が確かに多く、歩き方も速く、表情に
緊張感が感じられる。茅場町の駅へいってみると、入り口に人があふれている。
改札口は閉鎖され、「今点検中で復旧には今しばらく時間がかかります。」と
アナウンスがあった。近くにいた中年のひげをはやした外国人が、「英語話し
ますか。」とよってきたので、「ええ」と答えると、「家内がまだホームに
いるのだが、アナウンスではどういっているのか。」という質問だった。
「今線路を点検中でまだ時間がかかるが、いまのところ人的被害は聞いて
いない。」と伝えてあげた。
駅の雰囲気から察するに、なかなか電車は再開しないかもしれない、と感じた。
会社へ戻ると役員が全員を会議室に集め、本日は帰れる人から終業にして
よろしい、とのお達しがあった。役員の一人はその後近くのコンビニへいき、
乾パンの類を大量に買い込んできた。この段階では、その日のうちに鉄道網が
回復せず、人によっては長距離を徒歩で帰ったり、会社に泊まり込むなど
具体的に自分の身に降りかかることだと想像していた社員はあまりいなかった。
内閣府の中央防災会議が、首都圏直下型地震が発生した後で、帰宅困難者
大量に出るということを1年以上前に発表していたが、そんなことも知って
いる都民がどれくらいいただろうか。なにしろ、これまでの人生でその
ような経験などなかったのであるから。
 隣にビジネスホテルがいくつもあるのだから、その晩のためにすぐにでも
予約で部屋を押さえておくという発想が誰からも出なかったのは、今から
考えれば不思議なことである。
 筆頭役員は社員に帰宅の許可を出すと、自分はそそくさと帰宅した。
今のうちにタクシーでもつかまえて自宅へ戻ってしまおうという魂胆だった
のかもしれない。社員がその晩に「難民化」するので今から対処しておかね
ばならない、という発想はなかったのだろうが、誰もまだそのようなリスクを
感じていなかったので、そのこと自体を責める気にはならない。誰にとっても
初めての経験に、なんとなくぼんやりした不安と半分あきらめがあった。
 地震発生直後は電話もかかりにくくなっていたようであるが、4時過ぎごろに
なると外部からの電話も入り始めた。家の状態を確認するのを忘れていたのに
気付き、電話をかけたところ、長男がすぐ出てきた。居間の棚から物が落ち、
家の入り口の廊下に積んである本が倒れて、外へ出れなくなっているらしい。
次男は学校の指揮下で集団下校させると連絡があったという。できるだけ早く
帰宅することを伝えたが、この段階では電車が動かない状況でどうしたら
帰れるかまでは頭が回らなかった。
 パソコンのラジオが被害状況を伝え続けているが、東京近辺の混乱状況
ばかりで、震源地である東北地方がどうなっているという報道はほとんど
なかったと思う。津波の警戒警報が出たという放送はあったかと思うが、
この日ラジオで会社で聞いていた限りではその結果どうなったかという報道は
あまり記憶にない。実は発災後30分くらいで東北地方は津波が襲い、大変な
状況が起こっていたのだが、テレビがないのでその映像を見たのは帰宅後だった。
 余震が続き、会社内もなんとなく仕事を続けるような雰囲気でもなく、電車も
再開しそうにもないので、5時に事務所を出て、歩いて帰宅することにした。
東京駅へ向って歩き始めたが、さきほど外へ出てみた時より更に人通りが増えている。
千葉方面へ向かって歩いている人も相当おり、東京方面からこちらへ向かって歩いて
いる人も多い。どこの会社も早帰りをやっているようだ。K駅を再度のぞいてみたが、
もちろん電車は復旧はしておらず、前より駅構内の人が増えている。
 車道は車であふれ、救急車がサイレンを鳴らしているのに、進路がふさがれて前へ
進めない。歩道もこんなに人があふれているのは朝のラッシュ時並みである。内閣府
中央防災会議で、大地震後の帰宅困難者問題の報告書で、街中がラッシュ時の電車の
中の様になるようなことが書いてあったが、そこまでひどくないにしても人の熱気と
興奮状態で異様な雰囲気である。会社のロゴが入ったヘルメットをかぶって歩いて
いる若い人も少なからずいるのは会社の指示なのか。途中ビルの窓ガラスが落ちた
ために、ロープで囲ってあるところがあった。
 30分歩いてようやく大手町までたどり着いたが、東京駅近辺も人が多い。
もちろんこのあたりは通常でも人では多いのだが、人々の歩き方が恐ろしく速く、
雰囲気が違う。
皇居周りのいつもはジョッギングのランナーが多いところを神田方面へ向かう。
集団で塊りとなって速足で歩く会社員であふれ、先を急ぎたいという変な一体感に
満ちている。外人もヘルメットをかぶって一緒に歩いている。
 そのまま新宿方面へ行く人が多く、神田神保町へ行く人間は思ったより少ない。
よせばいいのに古本屋街はどうなっているのか、気になり、靖国通りへ行ってみる。
やはりほとんどの店はシャッターを下ろしていたが、ここらもビルの窓ガラスが落ちた
ところが目立つ。暗くなりつつなる中を、白山通りからさらに北を目指す。後から
聞いたところでは、この白山通りあたりの飲み屋で時間をつぶした人がそれなりに
いたと聞いたが、飲み屋や食堂も店を閉めていたところが多かったと思う。JRの
水道橋駅近辺はいつも通り人が多いが、春日通りから池袋方面を目指す人が多い。
 後楽園のラーメン屋名店「魚雷」で一服しようと思ったが、本日は6時半開店と
いうことで、開店まで待つものなんなので、そのまま歩き続けた。
 ようやく家のマンションまでたどり着いたが、建物の外見は特に問題なし。玄関の
ドアを開けると、積んであった段ボールが倒れ、中の本があふれて足の踏み場がない。
長男を呼び出すと奥から入ってくるのが大変だった、次男は歩いて帰ってくるらしいと
言いながら出てきた。傾いた段ボールを片づけ、居間にたどり着いたが、ここも棚の
なかから物があふれている。テレビをつけたが、電車が動かない中での帰宅ラッシュを
渋谷駅や池袋から報道している。これもいまから考えると不思議なのだが、地震直後の
津波でのみ込まれる東北の町の画像を見た記憶がない。確かに首都圏の人間にとっては
電車が当日中に復旧しないとなるとそれだけでも自分の身に降りかかってくる大変な
問題なのだが。
 そのうちに次男が学校から配布された重い救急キットを背中にかついで、高田の
馬場から帰ってきた。地震がおきてすぐに教師が帰宅できる生徒から先生が先導して、
同じ方面ごとに集団分けし、帰宅させたのだという。遠方から通学している生徒は
既に学校に泊まり込みの体制ができているらしい。日頃から準備をしているようで、
リスク管理の周到さに感心してしまう。家内は電車が動いていないので、今日は
戻らないことに決めたようだ。
 テレビの画面では、夜の釜石の街並みが、あちこちで油の炎で燃えている様子を
伝えていた。きっとあの漆黒の闇の中に人がたくさんいるに違いないのだ。
 日頃になく、長い距離を歩いたためにくたびれ、夕食はあり合わせのもので
そこそこに済まして11時くらいには寝てしまった。
 不思議なことにこの日は明るいうちに襲った津波や危機的状況にあった原発
ことはほとんど記憶にない。テレビの映像でもほとんど記憶がない。管直人首相が
記者会見し、国民に冷静な対応を呼びかけていたのはおぼえている。これから今後
首相も大変だな、大丈夫かな、という気持ち半分と、これで頑張れば管政権が生き
返るな、という気持ちが半分づつだった。この夜に福島第一原発メルトダウン
進行しつつあって、日本国が歴史始まって以来の危機的状況に陥りつつあることは
全く知らず、政府による長い迷走劇の幕開けであった。