「日本語が亡びるとき」はくるか。

 英語の「普遍性」を語るあまり、現に我々がその言語をもって生きている日本語に対してこれほど悲観的になるのが全く理解できない。

水村は日本語の、近代日本文学の牙城として何を想定しているのか、本当に守るべきまたは参照すべき日本近代文学とは何か。
鴎外、漱石志賀直哉三島由紀夫谷崎潤一郎太宰治、あとは私小説作家の幾人か。加藤周一的に小林秀雄林達夫
近代文学の達成とするとして、その他は何が残るのか。中上健次は入るのか。村上春樹の海外での評価をもってその達成を
評価している仲俣のようなのんきな評論家もいる。確かに文学・思想の表現としては実の近代日本の達成も心もとないものだ。
それを学ぶために日本語を学ぶ外国人なんてよほど変わった人だろう。だが、当たり前のことであるが、文学はなくとも
世界の誇るべき工業社会があり、日本語でそれを支えている。文学畑の人の日本語論の貧しさは、日本の産業社会を支えているのが、
日本語だという視点が欠けていることだ。そんなことは水村の配偶者の岩井克人に聞いてみればすぐわかることではないか。

今、文芸時評で毎月論じられる作家はそれらの範疇なのか。阿部や舞城が残るのか。それらは本当に将来に向かって守るべき
「文学」なのか。
 水村に問いたいが、英語で表現されている世界は本当にそれほど豊かなのか。ブッカー賞ノーベル賞で出てくるのも本当に
我々の文明の豊かさに貢献したのか。それらも何らかの党派的、商業的な反映に過ぎないのではないか。